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マジP!

間島淳司の日常をプロデュース!!

第49回らしいですよ?

いよいよ本日は衆議院議員選挙です。

普段我々のような仕事をしてる人間は「政治と宗教の話は語るな」などと言われますが、まぁコレって「人それぞれ信じてるものが違うから、声の大きい人が琴線に触れることあんま言わないようにしようね」って意味だと思ってます。
もちろん「僕は◯◯党を支持してます!」とか「△△さんに投票してください!」とかそういうことを言う気はサラッサラないですし、特に政治に興味があるわけではないんですが、政治に興味があまりないものとして「投票とはどういうことか」ということを、主に池上さんの番組から学んだ知識で、池上さんの番組見ないけどウチのブログ見てる選挙権を持ってるけど「別に行かなくていっかなー、意味なさそうだし」と思ってる人に向けて書いていこうと思います。


まず投票に行った方が良いか。
コレに関してはめんどくさくても「行ったほうが良い」と思います。というかコレがほぼ一番良いたいことです。
よく「自分ひとりが一票投じたところでなにも変わらない」とか聞きますが、投票ってそれだけじゃないってことを知って欲しい。
知識がないと誰に投票したら良いかわからない、だから行かない、ってなってる若い人いると思うんです。
いや、若い人じゃないな、ご年配の方の中にもそういう方はいると思います。
でもそこは違う側面もあるということを一つ言いたい。なぜなら池上さんが言ってたからw

国民一人ひとりに「一票」という権利が与えられているのは学校でも習ったことだと思いますが、わからないからといってその権利を捨ててしまうのはもったいない、ということが一点。
これには理由がありまして、国会議員の方ってなにを思って公約とか考えるか?って話でもあるんですが。
ご自身の中にある「この国をどうしたいか」とかもあるとは思いますが、受からなければそれさえも実現できない、という側面がどうしてもつきまとうわけです。
受かりたいならどうするか?より多くの票を獲得できるであろう公約を打ち出すわけですよね。
そうなるとここで問題になってくるのが投票率。
世代別に見た場合若い世代の方が投票率が低ければ、高齢者に手厚い政策ばかりが公約として出てきたりするのは当然のこと。
そしてそれを見て「老人のことばっかで俺たち関係ないじゃん」つって投票いかない、となるのが恐ろしいことなのです。
逆です、行かないと、ジジババに手厚くなっていくのは必然なのです。
だって人口比でいっても団塊の世代と呼ばれる高齢者の方が多いし、その世代の人めっちゃ投票行くからw
自分が投票した人が当選しなくても、20代30代、ともすれば40代もかもしれませんが「◯代の投票率が上がった」ということが、政治家たちに若者に手厚い政策を考えさせる、我々のできる一つの方策なのです。
だからもうぶっちゃけ選挙権ある人は、誰にも投票しないくらいだったら誰でもいいから名前書いて投票して投票率上げてほしい、って思います。
あと自分が投票した人が当選して無くても、投票に行った人は政治に文句言っていい権利を得てると思うのでw
たまたまニュース見て「ふざけんなよ!?」ってことがあっても、選挙に行かず権利を行使しなかった人は文句言う権利ないと思うのですよ。

僕自身ニュースは普段から見てますが、細かい政策とかはまったくといっていいほどわかりません。
興味ないことを調べるとかとっても難しいと思うし、そこまでしてやることか?ってなっちゃうのもわかるんですよねー、興味さえあればいくらでも調べるタイプの僕でさえ興味ないから調べたいと思わないしw
で「誰に投票すればいいかわからない」という人のために一個いいのを昨日のテレビで池上さんが言ってたのでご紹介しますw

「ボートマッチ」というものがありまして、各種新聞社などが各候補者にリサーチをして、どういう思想、公約を持って立候補したのかをざっくりまとめたようなものがありまして、多少多めなんですが質問に答えていくと、自分の考えに近いのはどの候補者、どの政党か、というのがわかる、というサービス(?)があります。
「誰に入れたらいいかわからん!」という人も、質問に答えていけば自身の考えに近いものが示されるのであれば指標となるのではないでしょうか。
シンプルに「ボートマッチ」で検索すれば出てくるので、誰に投票すればいいの助けて!という方は参考にされても良いのではないでしょうか。


ちょいと固めの話にはなりましたが、それ以上にカタいイメージのある政治、選挙がどういうものなのか、ということを柔らかく伝えられることが出来たらいいな〜と思って急遽したためた次第です。
詳しくなくたって国民は国民。
義務ではなく与えられた権利を、上手に行使できるように、この記事を読んで行かないつもりだったけど選挙行ーこう、とか、誰に入れていいかわかんなかったけどボートマッチしてみてわかったわー、とか、そういう手助けになればいいなと思いました。

自分の住んでる国ですしね、自分によくなることを選んでくれる人を”選ぶ”権利持ってるなら行使すべきですよね。


しらんけどw
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考察 |

”いい声”の向こう側

最近声優さんがテレビに出ること、増えてきましたよね。


モデルさんや作家さん、様々な有識者の方なんかが普通にバラエティとか出てるのに、なんで声優はほとんど出ないんだろう?と思っていたので、昨今の声優ブーム?めいたものはようやっと我々の職業も認知されて来たんだなーという印象を持っています。

まぁ僕にはオファー来ないけどw

でまぁやっぱり声優がテレビに出ると「あの役の声、お願いします!」っていう展開になるじゃないですか?
でやると、「おおー!」「良い声ー!」という展開になる。
コレね…ずーっと前から思ってることなんですけど、褒め方が安いと思いません?w

我々の職業って、声に特化してるのはもちろんですが、「声の良さ」ってある程度生まれ持ったものじゃないですか?
もちろん滑舌練習や腹式呼吸の体得だったりといった努力も乗っかって、さらにいい声にはなってると思うので、全てが生まれ持ったものだとは言いませんけど。
今声優として活躍してる人って、相当な努力を重ねて声優になってる人がほとんどだと思うんですね。
「いい声」って褒めるのって、なんちゅーかその”努力”の部分をないがしろにされてる感があるというか…よくよく考えて見るとそういう感じ、なんとなく感じませんか?

感じませんかそーですかw


じゃあ他のことに例えてもう少しわかりやすく話すとしましょう。


例えばテレビなんかでよく見る食リポ。
美味しいであろうものを食べて、どう美味しいかという「味」を伝えるのが食リポだと思いますが、その食リポで「美味しい!」しか言わない人って、食リポが下手とされてるじゃないですか?

例えば飲み会なんかで知り合った人が「僕アニメ好きなんですよ〜」と言ってきたとして。
「どんなアニメ好きなんですか?」と聞いてジブリとかワンピースとかエヴァって言うヤツがいたら「あ、こいつにわかだな」と思うじゃないですかw

なんつーか「いい声」って褒め方って、こういうことだと思うのですよ。
もちろん日常でご飯食べて美味しかったら「美味しい」って言ったっていいんですけど、そう聞いたらどう美味しいのか知りたくなって「どう美味しいの?」って聞いたりするじゃないですか?
ここでいう「美味しい」は「いい声」に該当するんじゃないかということです。
「いい声」と言われたら、例えば「どういい声なの?」とか「どういうところが好き」とかいう議論に発展したっていいじゃないかという話なのです。

もちろんわかってますよ?「美味しい」は食べた本人にしかわからない情報だからそういう議論になるんだって。
いい声ば聞いたらいいだけの話で、テレビでも伝えられる情報だからそれ以上の言及にはいたらないって。
でも言われる側からしたら「そんなことわかっとるわ」というか、もう一個踏み込んだ、どこらへんが他の声優と比べて良いのかとか、どうして好きなのかとかいう褒め言葉の方が嬉しいわけです。

そう!この「そんなんわかっとるわ」がいっつもモヤモヤするとこなんですよ!
聞いたらわかることをさも褒めたかのように!w
漫画家さんとかアーティストの方とかには「上手いですね」って言うくせに!なんで我々だけ「いい声ですね」って土台のとこしか言わんのよ!
グラビアアイドル見て「おっぱいおっきいッスね」って開口一番言うようなもんじゃない!
言うかそんなの!テレビで芸人さんでも言ってるの見たことないわ!!w


…すみません取り乱しましたw


とまぁいろいろ言いましたが要はそのくらい褒め方が安く感じるよということです。
もちろんいい声も褒め言葉で言われて悪い気がするものではありませんし、その褒め方が悪いというつもりはありません。
けどやっぱり、テレビとかでもいい声じゃなく「迫力が違いますね」とか「プロはやっぱり違いますね」みたいな褒め方してる方がより嬉しいんだろうなーと思うわけです。
皆さんももし声優さんを褒める機会があったら、いい声の向こう側を褒めてあげてください。

あとこれからテレビで「いい声ですね」って褒めてる人がいたら、「この人はグラビアアイドル見て「おっぱいおっきいッスね」って言ってるのと同じことしてるんだ…」と思ってください、そうするとなんか面白くなるからw
考察 |

言葉のフシギ。

でらえらいでかんわ。
ケッタを蹴った、壊けった。


…突然気でも触れたのかと思われました?w
別にそんなことはなく上の言葉は名古屋弁です。
意味は「すごく疲れた」と「自転車を蹴ったら壊れました」というものです。

方言って非常におもしろいなーと思うんですよね、他所の地方の方言ってやたら魅力的に聞こえたりしません?
かわいい女の子が喋ってたら広島弁とかでもなんか可愛く感じそうだし。てかそんな企画を月曜からよふかしとかでやってましたよね。
思い出すなぁ…甲州弁。「おまん、こっちんこうし」w
番組内ではかわいくないとかイジられてたけど普通に可愛いと思うんですよね…あれ、僕だけ?w
かと思えばお年を召した方々が喋ってるのをテレビとかで見ると別に魅力を感じることはなく、なんか納得する部分があったり田舎感を感じたりして。
同じ言葉なのに与える印象って変わるんだなーと。
…そうなると単純に若いかわいい女の子ならなにしてもかわいい、みたいな話になりそうですがそんなことではなくw


その中でも特におもしろいなーと思ったのが実は江戸弁でして。

江戸弁って日常会話で喋ってる人見たことないじゃないですか?
かつて江戸だった東京ではいわゆる標準語をしゃべる人が多いわけだし。
下町とかに行けばそれこそ落としを召した方の中には江戸弁で喋られる方も残ってるかもしれないけど…まぁ知人にはいませんわなw
でもどういうわけかみんな「江戸弁」って言われれば「てやんでぃべらぼうめぇ」とか「し」と「ひ」が入れ替わっちゃうとか、なんとなく特徴を知っている、という。
調べてみると他にも『連母音変化』という特徴もあるそうで、アイとかアエとかオイとかみたいに母音がつながってると音が一緒になっちゃうんですって。
ちなみに上のアイ・アエ・オイは全部「エー」となり、ウイは「イー」になるそうで。
これだけ聞くとなんのこっちゃさっぱりわかりませんが、「デーどころにあるケーもの袋にでーこんがヘーってる」と書くと「あー、江戸弁だわー」ってなりません?w
しかも方言なのに意味もバッチリわかるし。
これがまた自分が東京出身で喋ってる人が身近にいた過去があるとか、自身がかつてしゃべってた言葉だからわかる、とかいうんならわかるんですけど、なんでか名古屋出身の僕でもわかるという…超絶不思議な言葉なんですよねー、江戸弁って。

その理由を考えてみたんですが、おそらくテレビの影響なんですよね。
時代劇とか見ると町人が江戸弁で喋ってるからわかるんだと思うんですよね。
で、ここで面白いのが若い世代の中には時代劇見たことない人とかもいると思うんですけどそれでもわかるという…いったいなんなの江戸弁w


触れる機会は少ないのにみんなが理解していて且つ特徴的な方言・江戸弁。

日常的に使う世代の方がこれからどんどん減っていく言葉でしょうが、なんとなく江戸弁という知識は残っていくと思います、それこそ時代劇の中とかで。
なんとなく、日常系のアニメとかで関西弁みたいなノリで江戸弁しゃべるキャラとかがいたらおもしろそうだなーと思いましたw
ヒロインの江戸弁…萌えるのかは別として絶対おもしろそうじゃないですか?w
いつかそんな作品が現れたらいいのにw

…でも江戸弁って男言葉なのかw

考察 |

漢とA。

人間だけに与えられしもの…いろいろあると思います。

生きる、繁殖するという生命体としての目的”以外”のものはなんでも人間だけが獲得した能力だと考えるわけですが、パッと思いつくだけでも思考、言語、様々な形の欲、宗教や概念などなど…単純に「生きる」という目的のみを考えた場合必要のない概念がたくさんありますよね。

今回はこの中のから『文字』というものについて考えてみようと思います。


今こうやって皆さんが読んでいるブログ。
コレももちろん文字が存在するおかげで、こうして皆さんに僕が考えていることをお伝えできているわけです。
まぁそれ言い出すと昔PCがなかった頃なんて、とかネットが無かった頃は、とかいろいろ遡っていくわけですが…人になにかを伝える手段ってここ数十年でもかなりの進化を遂げてますよねー。
子供の頃は直接目の前で書くとか手紙出すとかしないと文字情報でやりとりすることなんて出来なかったですもんねぇ。

そんな情報伝達で考えても『昔は大変だった』感がありますが、それをもっと遡って考えてみたいと思います。
例えば。まだ文字というものが存在しなかった頃…。
おそらくまだ文字にはなっていないものの言語を介したやり取りは存在したはず。
”言葉”というものを用いて感情や思いを伝えあっていた頃。
「向こうにりんごがなってたよ」と伝える時に「りんご」という言葉を知らない人がいたとして、どう伝えようか…現物持ってくるのが一番早いでしょうけど、まぁそうなると地面に木の枝とか使って絵に描きますよね。
でも毎回毎回「りんごがあっちになってたよ」「りんごって?」「だからこういうかたちの…甘くて美味しいやつ!」「食べれるの…?」「甘くて美味しいっつってんだからさ!そりゃ食べれるっしょ!!」みたいなことで、新しい人に伝えるたんびに絵を描くのもしんどいし、なんかやり取りでイライラしそうじゃないですかw
こういった手間を省く発明が文字だったんだろうなー、と。
最初はひと目見てわかるかたちの文字…というかほぼほぼ絵を描いて、それを知らない人でもわかるかたちで伝える。
でも絵だと上手下手が出てくるじゃないですか?
伝言ゲームみたいなことをしてたとして、間に下手な人が入ったせいで上手く伝わらなかった、みたいなことを避けるために、絵を簡略化することで文字になっていった…というのが象形文字なんじゃないかと。

そっから象形文字以外にも様々な文字を表す方法が生まれ、現在では中国語の辞典には10万字を超える漢字が載っているんだとか…すごくないですか10万字って。
まぁ辞典にはめったに使わない漢字も載っているそうなので、実際日常で使う漢字に絞ると1600字程度のことらしいんですが…にしたって1600字の形状と意味はみんなわかってて使ってるわけでしょ?すごいですよねー。

さてそこで。
一方その頃…みたいなことを考えてみたいわけですが…アルファベットってヤバくないですかそう考えると。

たった26文字しかないものを組み合わせて単語を作り、意味を伝えるという方式…いちいち漢字覚えなくていい!大発明ですよね。
アルファベットは紀元前1700年〜1500年頃に誕生した北セム文字というものから始まってるんだそう。
ただしこの北セム文字というのは子音しか存在せず、書いた時に母音は補って読まなくてはならず。
それを補おうといくつかの母音を表す文字を足して出来たのがギリシャ文字なんですって。

さて漢字とアルファベット…より厳密にローマ字という言い方にしますが。
同じ文字なのになんでまた一方は10万字以上、一方は26文字という極端な差が出てきてしまうのか…そこらへんのことは文字の成り立ちや種類に関わることでして。
ローマ字は表音文字という種類で、1字で1つの音を表すように作られた文字。
一方漢字は表語文字といい、その文字1字でなにかの意味を成すタイプの文字。
漢字の方がより限定的な使い方を目指した結果このような差が生まれたわけですね…ここにさらに派生してひらがなとか生まれて覚えるもんいっぱいで…ってそら日本語難しいとか言われるわw
てか漢字使って表記して、読めないからって読み仮名振る日本語っておっそろしい文字文化ですよねw


なんにしても。
古代の人達が生み出した文字のおかげで、我々はスムーズに意思疎通が図れるわけですね…人間ってのは昔っからラクするために頭使ってんだなーと思うと、今も昔もあまり変わってないのかもしれないですねw

考察 |

見る”ことば”。

街でお布団売ってるお店がありまして。
店先に「うもうふとん」って、全部ひらがなで書いてあったんですね。

歩きながら流し見だったせいもあると思うんですが、なんでか真ん中の「うふ」が印象的に飛び込んできたせいでまるで意味がわからず数秒後に「ああ羽毛布団か」と理解できたんですが。


日本語ってのはおもしろいもんで、当たり前に知ってるものでも書き方ひとつでこのように一瞬理解できなくなったり、まったく違った印象を与えたりすることがあるもんです。
アフレコなんかでもそれを感じることがありまして、オートで流れていく画面に合わせてお芝居をするというこの仕事の性質上、こっちのタイミングでお芝居は出来ないわけです。
しかも画面を見、マイク前の空き状況を見、音を立てないようにマイク前に行きお芝居をして帰ってくる…というやること見るとこ多い作業を同時進行でこなすため、ぱっと見て台本の漢字が読めずトチる、なんてことがままありまして…それを未然に防ぐためにいつの頃からか『現場に着いたらまず自分のセリフの漢字すべてに読み仮名を振る』というのが仕事前のルーティーンみたいになりました。
おもしろいもんで、漢字を見つつ隣に赤ペンで書かれたひらがなを読むとミスが減るんですよねー。
なんなら「これもう小さすぎて読めなくね?」ってサイズで書いてあっても何故かミスしないというw
きっと始まる前に「読み仮名を振った」という記憶が残ってて読めてるんだと思うんですが、その割には「僕」という漢字の場合役の年齢とか性格によって、ひらがなで「ぼく」と振ったりカタカナで「ボク」と振ったり分ける、とか、小さなこだわりとかもあったりして。
人間ってのはホントに不思議な生き物だなーと感じます。
…自分だけなのかもしれないので「人間」という括りにするのは違うのかもしれませんがw


で。

こうしてブログやTwitterなど文章で人様に思いを表現する媒体のとき限定なんですが、わざと「〜のような」という言葉を「〜のよーな」と長音で書いたりすることがありまして。
これも文字を見たときの印象で、どちらのほうがより今の気持ちが伝わりやすいか、ということを無意識下で判断して選んでるんだと思うんですが、なんでこんなことするようになったのかなー?とふと思いまして。
一因としては仕事で台本上の記載を気にしながら芝居をすることが多いから、というのがまずあるなと。
例えば「返せ。」と「返せ!」では芝居に変化が出ますし、「返せ!!」も「返せ…!」も「返せ…ッ!」もぜーんぶお芝居が変わると思っています。
現場の直しでも音響監督さんが「ここ「…」って書いてるけど無視していいから」などとダメ出しをされてる光景もよく見かけるので、おそらくは声優という職業の人はこういう『表記による表現の違い』に敏感な人が多いんだと思います。

がそれだけではないような気がして…いろいろ思い当たるフシを考えてみたんですが……ひとつだけ思い当たりました。

ほら、僕ってオタクじゃないですか?
今はそれほどでもなくなりましたけど昔はたくさんの漫画を読み漁って、オタク欲を満たしたり様々な文化を吸収したりしたもんです…。
その漫画のフキダシ。
これってそのキャラクターがどうしゃべるか、どういう性格なのかを説明する「キャラのヒント」でもあるんですよね。
それこそ僕なのかボクなのか、俺なのかオレなのか、私なのかワタシなのかワタクシなのかでぜんぶキャラ違って見えますよね?
こここそがこの表記文化の原点なんじゃないかな、という結論に至りまして。
その中でも特に『THE MOMOTAROH』という作品は僕の中に相当強い印象を残しているらしく…先述の「〜のよーな」みたいな表記の仕方がメチャクチャ出てくるんですよねw
中でも印象的なセリフ表記に

「○○たるやそーぞーを絶してやんの」

という表現がありまして。
なんのシーンだかは覚えてないんですけどこのフレーズだけ妙に印象的に残ってるんですよねー。


うもうふとんからまさかの10歳の頃の記憶まで遡ってしまいましたw
思ってもないところでいろんなこと考えて書いてるもんですね、文章って。
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