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マジP!

間島淳司の日常をプロデュース!!

見る”ことば”。

街でお布団売ってるお店がありまして。
店先に「うもうふとん」って、全部ひらがなで書いてあったんですね。

歩きながら流し見だったせいもあると思うんですが、なんでか真ん中の「うふ」が印象的に飛び込んできたせいでまるで意味がわからず数秒後に「ああ羽毛布団か」と理解できたんですが。


日本語ってのはおもしろいもんで、当たり前に知ってるものでも書き方ひとつでこのように一瞬理解できなくなったり、まったく違った印象を与えたりすることがあるもんです。
アフレコなんかでもそれを感じることがありまして、オートで流れていく画面に合わせてお芝居をするというこの仕事の性質上、こっちのタイミングでお芝居は出来ないわけです。
しかも画面を見、マイク前の空き状況を見、音を立てないようにマイク前に行きお芝居をして帰ってくる…というやること見るとこ多い作業を同時進行でこなすため、ぱっと見て台本の漢字が読めずトチる、なんてことがままありまして…それを未然に防ぐためにいつの頃からか『現場に着いたらまず自分のセリフの漢字すべてに読み仮名を振る』というのが仕事前のルーティーンみたいになりました。
おもしろいもんで、漢字を見つつ隣に赤ペンで書かれたひらがなを読むとミスが減るんですよねー。
なんなら「これもう小さすぎて読めなくね?」ってサイズで書いてあっても何故かミスしないというw
きっと始まる前に「読み仮名を振った」という記憶が残ってて読めてるんだと思うんですが、その割には「僕」という漢字の場合役の年齢とか性格によって、ひらがなで「ぼく」と振ったりカタカナで「ボク」と振ったり分ける、とか、小さなこだわりとかもあったりして。
人間ってのはホントに不思議な生き物だなーと感じます。
…自分だけなのかもしれないので「人間」という括りにするのは違うのかもしれませんがw


で。

こうしてブログやTwitterなど文章で人様に思いを表現する媒体のとき限定なんですが、わざと「〜のような」という言葉を「〜のよーな」と長音で書いたりすることがありまして。
これも文字を見たときの印象で、どちらのほうがより今の気持ちが伝わりやすいか、ということを無意識下で判断して選んでるんだと思うんですが、なんでこんなことするようになったのかなー?とふと思いまして。
一因としては仕事で台本上の記載を気にしながら芝居をすることが多いから、というのがまずあるなと。
例えば「返せ。」と「返せ!」では芝居に変化が出ますし、「返せ!!」も「返せ…!」も「返せ…ッ!」もぜーんぶお芝居が変わると思っています。
現場の直しでも音響監督さんが「ここ「…」って書いてるけど無視していいから」などとダメ出しをされてる光景もよく見かけるので、おそらくは声優という職業の人はこういう『表記による表現の違い』に敏感な人が多いんだと思います。

がそれだけではないような気がして…いろいろ思い当たるフシを考えてみたんですが……ひとつだけ思い当たりました。

ほら、僕ってオタクじゃないですか?
今はそれほどでもなくなりましたけど昔はたくさんの漫画を読み漁って、オタク欲を満たしたり様々な文化を吸収したりしたもんです…。
その漫画のフキダシ。
これってそのキャラクターがどうしゃべるか、どういう性格なのかを説明する「キャラのヒント」でもあるんですよね。
それこそ僕なのかボクなのか、俺なのかオレなのか、私なのかワタシなのかワタクシなのかでぜんぶキャラ違って見えますよね?
こここそがこの表記文化の原点なんじゃないかな、という結論に至りまして。
その中でも特に『THE MOMOTAROH』という作品は僕の中に相当強い印象を残しているらしく…先述の「〜のよーな」みたいな表記の仕方がメチャクチャ出てくるんですよねw
中でも印象的なセリフ表記に

「○○たるやそーぞーを絶してやんの」

という表現がありまして。
なんのシーンだかは覚えてないんですけどこのフレーズだけ妙に印象的に残ってるんですよねー。


うもうふとんからまさかの10歳の頃の記憶まで遡ってしまいましたw
思ってもないところでいろんなこと考えて書いてるもんですね、文章って。
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考察 |

こんりゃく!

最近、妹の様子がちょっとおかしいんだが。

この素晴らしい世界に祝福を!

モンスター娘のいる日常。

ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか。


これらに共通することとはなんでしょう?



正解は……どれも僕が出ていること…ではなくw
名前が略される、ということです。
それぞれ『いもちょ』『このすば』『モンむす』『ダンまち』といった具合。

いちいちフルで名前呼ぶにはどれも長いから、ってのが略される理由でしょうが、だったらなんでそんな長い名前つけたんだっちゅー話でもあるんですが、逆に略されることで親しみが湧く、みたいな効果を期待してるのかなーとか勝手に想像したり。

にしてもこういったタイトルに関わらず日本語ってすぐ略したがると思いません?

上記のような長いものならまだしも、ぬらりひょんの孫だってぬら孫って略すし、ワンピースのことワンピって言ったりとか。
「ース」くらい言ったってそんな大した労力じゃないだろとw
ラルクにミスチル、セカオワだったりと、アーティスト名も略されます。
そんなん言い出したら人名だってキムタク、勝新、ニノに松潤とか略されまくりですけど。…まぁ人名の場合はあだ名といった側面もあるので単純に略してる、というわけではないのかもしれませんが。
かつての流行語でもチョベリバなんてのもありましたし、老いも若いも老若男女、日本人は略すのが好きなんだろうなーと感じることがあります。

では問題。
次のうち略語なのはどれ?すべて選びなさい。

・食パン
・レーザー
・ピアノ
・教科書


さぁどうでしょう…どれが略された言葉だと思いますか?
正解は……全部ですw
食パンは「主食用パン」、レーザーは「ライト・アンプリフィケーション・バイ・スティミュレイテッド・エミッション・オブ・ラジエーション」の頭文字をつなげて略した言葉、ピアノはイタリア語の「クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・コルテ」を短くしたもの、教科書は「教科用図書」の略語なんですって。
知らないだけで、世の中には略語だと思ってなかったものが略語だったりするんですねー。
てかレーザーが超意外でしたね…システム的にはOPECとかと同じだったとは…絶対レーザーって英語がそもそもあるんだと思ってたw

てことは略したがりは日本人だけじゃないってことですよね?もーどれだけ人間はらくしたがるのか!w

たまには元の、長い名前のことも思い出してあげよう…なんてことをふと思ったというお話でした。





ちなみに今日のタイトル。これも略語です。
では略す前の正解はなんでしょう……?

正解は。

『こんなにも素晴らしい言葉が安易に略されるわけがない!』でしたw
ラクしないでちゃんと言ってこうぜ!ニンゲン!!w
考察 |

人を笑わせてみよう!

たまにはマジメなことでも書いてみようかと思います

書かないと…僕が声優だってこと忘れるでしょ?w



先日とある現場で、運動会のようなシーンにアフレコをするという瞬間がありました。
運動会というかまぁ、徒競走のようなレース的な感じだと思ってもらえればだいたい間違いないかと。
作品のテイスト的にはキャラの感じも名前からして既存の人物をモジッたギャグ感あふれる感じの…アレです、一堂零とか出瀬潔とかみたいな、奇面組的名前の感じ。
つまりはまぁコメディだよね、という感じのテイスト。
この日はメインでレースをする人たち以外にレースに参加している人、というキャラではじめましての方がいらっしゃってました。

アフレコの手順としては普通に、まずテストをしてそれから修正、本番を録って直し、という流れでまずはテスト。
前述の通りコメディテイスト強めに見える台本だったので、はじめましての人もそれを感じ取っているのか、台本上セリフのないところに荒めの息芝居を入れてみたり、かなり強めに笑いを取りにいくお芝居をされてました。
別に聞いててもなんらおかしなところはない感じ…だったんですが、テスト後の修正で音響監督さんが「そこはそんなハデにやらなくて大丈夫です」と。
「このシーンは笑いに見えるしそうなんだけど、競ってる本人たちはマジメにやってるのが視聴者から滑稽に見える感じにしたい」という意向だったんですが、コレ聞いてホント芝居って難しいな…と改めて思ったんですよね。

ひとくちに「お芝居」というと、パッと浮かぶのはやはりお芝居をする人、役者さんを想像するかと思います。
別にそれが悪いとかおかしいとかいうわけではなくいいんです、それは普通なんで。
ただここで、特に我々お芝居をすることを生業とする者が考えなければならないのが、「受け手」と「指揮者」のことなんですねー。
上の話でいえば受け手は視聴者、指揮者は音響監督。
指揮者っつっちゃったんですけどあえて料理に例えますがw
料理の場合でいえば、視聴者はお客さん、音響監督は料理人、そして僕ら役者は料理の材料にあたります。
料理人はお客さんの注文に合わせ、それに適した材料を適した形に切ったり味付けしたりして、ひとつの料理を完成させます。
その料理を食べてお客さんに「美味しい」と感じてもらうのはもちろんですが、そこにある種の隠し味みたいなものが入っていると「また来よう」と思ってもらえる名店になっていくわけですよね。

話を芝居に戻しまして。
お客さんの注文が台本に書いてあるセリフやト書きで、音響監督はその書かれている役にピッタリな人を配役し、実際にテストでやってもらった後に”調理”するわけです。
上の話でいえば『コメディなんだけど、本人たちは真剣にやってるのが逆に滑稽』という部分が隠し味になります。
平たく言えば演出ってことなんですが、そうすることでパッと見た脚本の印象よりもより深くシーンが創り上げられていくというか…いくら素材が美味くても、使いどころやかける調味料間違えたらその美味しさが生きてこないというか。
音響監督の真髄を見たような気がしました。

でまたこの件で感じたのが、笑いの難しさ。

今回のケースでいえば、笑いを取るシーンで「笑いを取りに行かないで」というディレクションをしているわけです。
でも結果笑いは取れる、という判断のもとこのディレクションをしているんですよ…え、なにこれ矛盾?それとも哲学?とか思いません?w
でもソレこそが”笑い”なんですよね。

よく役者仲間とお芝居における笑いの話をする時に『コメディ』と『バラエティ』の違い、みたいな話をします。
僕ら役者がやるのがコメディ。お笑い芸人さんたちみたいなプロの笑いを取る人たちが作り上げるのがバラエティ、だいたいそんな認識だと思ってください。
お芝居にはお話の流れがあって、キャラクターがそこに生きていて、その流れとキャラクターにそって笑いを取る、という作業が必要になります。
その枠から飛び出してしまうと世界観が保てなくなってしまうので。
ただ笑いとは”裏切り”であるという側面も持ち合わせてまして…流れを崩さない程度に”外す”ことで笑いを取ることもあるわけです。
ここまではコメディの範疇。
バラエティというのはテレビのバラエティ番組みたいな感じで、誰かがボケたらそれにツッコんだり乗ったりして、流れ自体もその場で作り上げていくもので、登場している全員が「未来の流れを知らない」状態で作っていくわけです。
誰かが前に出たらより立つように周りでフォローしたり、目立ってない人がいたらその人に流れが行くように組み立てたりと、流れ自体から全員で作っていくわけです。
まぁこれもプロの芸人さんたちがやるからきちんと面白く成立しているだけで、素人みたいな人たちがマネごとしようとすると誰かが悪目立ちしたりヘンな沈黙が生まれたりと、上手くいかない非常に難易度の高いことなんですが…たまーにコメディ作ろうとしてるのにバラエティのやり方で入ろうとしてくる人がいるんですよねー。
前述の通りアレはプロの芸人さんたちだから成立してるものだし、コメディはそもそも流れが決まってるわけです。
そこで流れを無視して自分だけ面白くなろうと突拍子もないことしちゃう人がいたりして、ここのバランス読み間違えるとせっかくの面白い本も台無しになってしまうこともしばしば。
生徒Bがめっちゃ意味深な芝居してたらおかしいじゃないですか?wつまりはそういうこと。
コメディの世界でバラエティやろうとすると大失敗してしまうのです。

あとコレも見ていて「笑いって難しいな…」と思うことがありまして。それが『ツッコミ』。

バラエティの世界にもコメディの世界にも存在するものではあるんですが、コレって僕、バラエティの世界からやってきた異文化コミュニケーションだと思うんですよね。
僕はバラエティ番組が好きでよく見てるからコメディ作品で「なんでだよ!!!!」とか書いてあってもすんなり受け入れられるんですけど、あまりコメディ作品に慣れてない役者さんからするとわからないらしいんですよね。
そういった方が現場で音響監督さんに「この「なんでだよ」のセリフはどういう感情で言えば…」と質問をしてる姿をよく見かけます。
それを見ていていつも「意味なんてないのに…」と思っちゃうんですよw
バラエティ…というか笑いの基本って、「誰かを笑わせること」じゃないですか?めっちゃ当たり前の話ですけどw
コメディの場合は役があって流れがあるからそこに沿ってないとダメなんですけど、バラエティの場合はそれらがなく、等身大の自分が目の前のお客さんを笑わせるという側面が強いです。
つまりは「目の前にいるお客さんに対して表現をするもの」なのです。
ツッコミもその世界から来たものだから、目の前でボケた役にかけても意味がないし、怒るとか笑うとか役自体の感情もどうでもよくて「今面白いとこですよ〜」という記号を視聴者に投げかけるものなんですよね。
だから僕の中では「喜・怒・哀・楽・ツッコミ」という五大要素がコメディにおける心の動きだと思ってます。

というかもっといってしまえば、お芝居自体も僕は全て「お客さんに振るもの」だと思っています。
僕らがどれだけ役になりきって感情を理解して芝居をしようと、それが見ている人に伝わらなくては意味がありません。
役になりきることでそれが上手く表現できる人はそれで良いですが、そうじゃなければ「この役は今こういう感情です」ということをお客さんに伝えることこそが大事だと。
何故泣いているのか?それは目の前で大切な人が命を落としたから。という説明を、涙混じりの声で名前を呼ぶことで表現するわけです。
僕らは分業で声だけ担当なので、極論実際泣いてなくても泣いているように聞こえればいいわけですよw


とまぁ最後は多少乱暴な意見になりましたがw
笑いもお芝居も突き詰めていくと難しいなぁ…というお話。

あとどの作品かはまだ言えませんが、どっかのそんな感じの番組にそのうちお邪魔するんでいろいろチェックしてみてくださーいw

考察 |

ヘタウマ?

我々は”喋る”職業。

ラジオで喋ったり、アニメで気持ちを込めてお芝居をする…演技と喋りはまた別だとう方もいらっしゃるかもしれませんが、姿を晒さず絵にお芝居を当てるということは仕事内容としては喋らないと成立しないので、これもまた「喋る」仕事なのだと思います。


ありがたいことに20年近くこのお仕事を続けさせていただきまして、それなりに上手くなってきた方だと思いますが、未だにお芝居の本質だったり真髄だったりといったものは程遠く、マジで奥の深い世界だな…と痛感する日々。
が周りの後輩からは「間島さんは上手い」と言っていただけることもしばしば。
自分ではそう言われてもピンとこないんですけどね…周りに僕より上手い先輩なんてゴマンといるし、そういうこと言ってくれる若手の子たちだって上手いと思うし。
こないだの『魂殻少女』なんかもそうですが、20歳そこそこの若い世代が堂々と板の上で役を演じてるのを見るとつい「最近の若い子はすごいね…」とか「俺が同じ年の頃はもって何もできなかった」とかついおじさんじみたことを言ってしまいます…まぁ実際おじさんなんで別にいいんでしょうけどw

んでなんで自分では自分のこと上手いと思えないんだろうなーと思ったら理由が…ふたつ見つかりました。

一つは先述の通り「周りに上手い先輩がゴマンといる」。
自分にできないことをやれてる人はできないからすげぇ!と思うし、できないってことはまだまだ未熟な自分を痛感させられるわけで上手いとは思えませんよね。
もう一つは逆に「できるのは当たり前」だから。
芝居に限らず自分にできることって当たり前のことじゃないですか?
例えば僕はよく自炊してますから料理は「できる」けど、普段からあまり料理をされない方や「私は料理はしません」と公言されてるような方からすれば「料理ができてすごい」わけです。
自分が作ったごはん見て「俺…すげぇな」とは思わないでしょ?まぁ餃子みたいな手間のかかる料理の場合は多少は感じるかもしれませんがそれでも「作れる」ものだし、もっといえばパパっと5分くらいで作った料理でも「すごい」って言われたりしたら「どこがやねん」とか「誰でもできるやろ」と思いますもん。
でもできない人からすればそれさえもすごいわけで。
僕がお芝居でやってることって、意図的に「やろう」と思って「できてる」ことなので、それは当たり前のこと。
当たり前のことをやれるのは当たり前で別にすごくない。
自分にできないことをやれてる人が「すごい」と思うわけです。

はい論破ーw


てなことを考えたときに、ふと恐ろしい事実に気が付きました。

ヘタが…できないんですよw

下手っていうとアレですけど、要は素人さんの喋り方ってことです。
一度もマイク前で芝居したことのない人にマイク前で喋らせるとやったことないから緊張して上手にしゃべれないでしょ?
何度か喋ったことがあるとか、普段は体も使ったお芝居の経験がある方も、僕らからすると喋りの技術は持ってない場合が多いのでどこか違和感みたいなものを感じてしまいます。
俳優さんが吹き替えやったりすると感じるヤツですね。
お芝居は出来てるのになんかヘン…ってのは、喋りの技術がないからしっくり来ないってこと。
でも例えば「素人が緊張してるシーン」を振られたとしたら…?
絶対に…僕よりマジ素人の人が上手なわけです、だって実際に緊張してるだろうし実際に下手なんだから。

こういう「上手になったからこそできなくなったロストテクノロジー」みたいなものって確実に存在していて、下手なものが正解なときにそれができない自分に気づくわけです。
そんなこと考えだしたらもう…なにが上手くてなにが下手なのかわからんw

子供の頃とかまだ芝居の訓練を受ける前はきっとできてたはずなんですよ。
でも訓練した結果上手くなっちゃって、前にできてたことができない、なんてことが発生するわけです…上手くなったんだからいいじゃん、ともいえますけど、なんかできてたことができなくなるのって悔しくないですか?w
いつかそれさえもできるようになったら、それこそマジですげぇんだけどな…絶対ムリだけどw


世の中なんでもないものねだりなんだなーとふと思ったというお話でした。

考察 |

しあわせのかたち。

マジ卍ー、間島淳司ー。




……マンジま淳司ですw


いつものよーに先日街を全力徒歩で歩いてたんですが、歩いてるときって僕音楽とか聞くでもなく街の様子を見るのが好きなんです。
行く場所が限られてもいるので似通った場所を歩くこともあるんですが、歩くたびに知らなかったお店見つけたり、それこそ先日のブログじゃないですけど紫陽花発見したり。
自転車ほど早いと読めないけど歩きだと文字も読めたりするんでカフェの看板読んでみたりとかもしてます。
同じ道歩いててもちょっとずつ違うのが面白かったりするんですよね、だから歩きながらめっちゃキョロキョロしてんですけどw

もちろん一番見てるのは”前”なんで危なくはないので念の為w

といろいろとキョロキョロしながら歩いてて、ふと街にある地図の看板が目に入りまして。
最近は外国人観光客の方も多いからなのか、大きめの看板には地図記号の説明が書いてありました。
地図記号って学生時代に覚えさせられましたけど、わかりやすいのとわかりにくいのありましたよね。
郵便局とか学校とかお寺とか交番など、身近にあるものはともかくとして、果樹園とか針葉樹林なんて自然の多いとこ行かないと見ないじゃないですかw
なんやねんこのマーク…と思いながら覚えたもんです…あー懐かしい。
などと思いながら見てたんですけど、お寺のマーク…卍ってあるじゃないですか?
冒頭じゃないですけど昨今は女子校生発信で『マジ卍』なんつって脚光を浴びてますけど、そもそもはこの地図記号で初めて知るもの。
お寺といえば卍。わかりやすいしお寺さんはだいたいどの地域にもあるから地元の地図見ても見つかってみんな知ってるものです。
でも…そもそも論なんですけど。

なんでお寺が卍なの?w

学校で教わったしそういうもんなんだろうと思ってたけど、考えてみたらなんか不思議じゃないですか?
消防署だったら昔使ってた刺股と呼ばれる道具がデザインのもとになってたり、神社だって見たまんま鳥居のかたちだったりと、だいたいわかりやすい由来があるものです。
見かけないから覚えづらい、つってた果樹園とか針葉樹林だって、それぞれ果実のかたちだったりとんがった木のかたちしてたりして「なるほどね」と思えるものばかり。
…なのに卍?お寺なのに卍???どうして?????
神社の鳥居みたいに目に見えて「そうだよね」ってもんでもないし、お寺に行って卍のものがあるの意識したこともないし。
でも絶対なんか意味あるじゃないですか、地図記号なんてパッと見でわかんないといけないものに採用してるくらいなんだから。
ということで調べてみました。


そもそもこの卍という記号…というか文字というか。
これは実はとても歴史が古いもので、約一万年前のインドではすでに使われていたんだそう。
インドといえば?ヒンドゥー教だったり仏教だったりの発祥みたいなとこじゃないですか?お釈迦様だって天竺まで行こうとしてたくらいだし。
そんな仏教やヒンドゥー教の遺跡なんかにこの卍模様がいくつも遺されているんですって。

なんかしら宗教関連に関係がありそうだな、ということはわかりましたが、じゃあそもそもこのカタチなんなん?ってことですが。
卍はサンスクリット語でスヴァスティカ(स्वस्तिक)と呼ばれ、吉祥の印として読まれていたんだとか。
仏教でも「幸せ」とか「めでたい」といった意味で捉えられ、寺院仏閣ではよく見るといたるところに彫刻されてたりするんですって。
…知らないだけでお寺にちゃんと彫られてるんですね…w

さあお寺に関係があることはわかりましたがなんでこのカタチなのか?という疑問は残ります。
こちらも理由がきちんと記されておりました。説は2つ。

ひとつはヒンドゥー教から。
ヒンドゥー教にはヴィシュヌという神様がいます。
ヴィシュヌはブラフマー、シヴァと並ぶヒンドゥーにおける非常に重要な神格。
このヴィシュヌの胸の旋毛が卍みたいなかたちをしていた、という説。
もうひとつは仏教。
仏教で重要な神といえば…お釈迦様ですよね?まぁ神っつーか仏ですけどw
そのお釈迦様の胸に現れた吉兆の印(瑞相というそうです)のかたちが由来だと言われているんだそう。

どちらにしても神様の胸元に現れたとってもありがたーいかたちが由来、ということですね。

そんなありがたーい由来のあるものが、仏様がいる場所・寺院のマークになっていたというわけ。
調べてみると納得の理由がありました…いやースッキリした。


これからはマジ卍間島淳司とかいわれてイジられても幸せな気持ちになれそうです、マジ卍w

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