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間島淳司の日常をプロデュース!!

境界線上の羞恥心

人には羞恥心というものがあります。

羞恥心は感情でいえば『恥』の概念にあたる概念ですが、そもそも恥というものは社会通念や自我、自意識といったものが確立した状態で生まれるものです。
生まれたての赤ちゃんは裸でも人前で恥じることはないでしょう?
つまりはそういうこと。
節度を知る人間は恥を知り、羞恥心を感じるということです。

さてその『羞恥心』、学術的には4つの尺度に分けられるそうで。
細かくいえば「全体的自己非難」「回避・隠蔽反応」「孤立感」「被笑感」といったもの。
何かをした・何かが起きた時に「あれ、自分は今周りと違うぞ?」と思い、その状況から逃げたい、と感じ、だんだん自分が一人ぼっちに思えてきて、最終的には周りに笑われているんじゃないかと思う…とまぁそんな段階で分けられるわけですね。
一言に羞恥心といってもこれだけ細かく分析されているんですねー、素晴らしきは人類の英知。


んで。
皆さん今こう思っていることでしょう。
「なんでいきなりそんな話しだしたん?」とw
実に…ごもっともw
いやね、ふと思ったんですよ、人間ってどこまでやると羞恥心を感じるのかしら、と。

人前で裸になると恥ずかしいじゃないですか?コレって羞恥心ですよね。
でも服着てれば恥ずかしくないわけでしょ?コレは羞恥心は働いてないわけで。
社会通念…言葉にすれば「常識的に考えて」ってヤツですが、恥という概念にはコレが密接に関わってることは上記のことを調べてるうちにわかったんですが…んじゃその通念の境目って、どこにあるんだろうなーと。
裸と着衣は極論として書いてるのでいいとして、そこの境目…どこまで行くと人は恥を感じるのだろう、と。

例えば水着。
ビキニともなれば布地面積も少なく限りなく裸に近いわけですが、夏の浜辺で恥ずかしがりながらビキニ着てる女は見たことありません。
さっきの羞恥心の説明では、「人と違うことをしていると”恥ずかしい”が始まる」的なことを書きました。
つまり夏の浜辺では「ビキニは普通」という社会通念が働いた結果であるわけです。

同じく水着を着るとしても、例えば水着で渋谷にお買い物に行けるか…ということを考えてみましょう。
夏の浜辺では抵抗なく歩けるはずの服装であるにも関わらず大多数の人は『恥ずかしい』と感じるはず。
これは「そんな格好で歩いてるヤツは他にはいない」という孤独感を想定して恥という感覚を味わっているわけです。

たまたま渋谷が出たので渋谷にいるおねーさんのことを考えてみましょう。
たまに渋谷に行くと、見ているこっちがびっくりするほど露出度の高い服…ほぼほぼ下着見えてんじゃねぇか!隠せ隠せ!と思うような服装で街を闊歩している人を見かけることがあります。
ご年配の方は『恥も外聞もない!』とお怒りになるかもしれませんが、それは『無い』のではなく『基準値が違う』ということであり、彼女たちにとってその服装はオシャレであり、人前に出ても良い許容範囲だというわけです。


だんだん羞恥心というものがわかってきましたね。

つまり人は、自分にとって・社会にとって『当たり前』になりさえすればそこに恥を感じることはない、ということです。
ここは水着になっていい場所だ、今は下着が見えてても問題ない場面である…そういった感覚を相手に与えてしまえば、そこにはもう羞恥心とは無縁の世界が出来上がるわけです。


そこで僕は考えたわけです。
例えばイベントで「参加条件は全裸」とかいう決まりを作ったとしましょう。
とするとその空間では、裸であることが当たり前になります。
普段は『羞恥心』という憎き敵が我がエロス心を満たさぬよう邪魔をしているわけですが、その敵を取っ払う方法があれば…もうパラダイス。
他にも「間島さんはおっぱいを揉む人」とか「ニーハイを写真に撮るのが普通」とかいう決まりを作り、空間を支配してしまえば僕の思いのままのステキエロライフが送れるわけです…やったぜベイビー!!

これは…使えるで!(握り拳)

すぐにでもそういった趣旨のイベントを!!
…と思いましたがよくよく考えたら日本には警察という組織が存在するので、それを実行したかったら『日本』という国に存在している概念を作り変える必要があるわけで。
もはや神の所業ですねそれw
どうにも不可能っぽいので実行するのはまたの機会にしたいと思いますw


きっと…こんなことばっか考えてるからモテないんだとわかっていながら、思い描いたエロ世界が実現しないことを理解しつつ、僕はネットの海に身を委ね、理想の画像を探すのです…w
はー、世界中のおっぱいが見たいw


以上、インターネットって便利ね、というお話でしたw

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