見る”ことば”。2018-12-05 Wed 00:14
街でお布団売ってるお店がありまして。
店先に「うもうふとん」って、全部ひらがなで書いてあったんですね。 歩きながら流し見だったせいもあると思うんですが、なんでか真ん中の「うふ」が印象的に飛び込んできたせいでまるで意味がわからず数秒後に「ああ羽毛布団か」と理解できたんですが。 日本語ってのはおもしろいもんで、当たり前に知ってるものでも書き方ひとつでこのように一瞬理解できなくなったり、まったく違った印象を与えたりすることがあるもんです。 アフレコなんかでもそれを感じることがありまして、オートで流れていく画面に合わせてお芝居をするというこの仕事の性質上、こっちのタイミングでお芝居は出来ないわけです。 しかも画面を見、マイク前の空き状況を見、音を立てないようにマイク前に行きお芝居をして帰ってくる…というやること見るとこ多い作業を同時進行でこなすため、ぱっと見て台本の漢字が読めずトチる、なんてことがままありまして…それを未然に防ぐためにいつの頃からか『現場に着いたらまず自分のセリフの漢字すべてに読み仮名を振る』というのが仕事前のルーティーンみたいになりました。 おもしろいもんで、漢字を見つつ隣に赤ペンで書かれたひらがなを読むとミスが減るんですよねー。 なんなら「これもう小さすぎて読めなくね?」ってサイズで書いてあっても何故かミスしないというw きっと始まる前に「読み仮名を振った」という記憶が残ってて読めてるんだと思うんですが、その割には「僕」という漢字の場合役の年齢とか性格によって、ひらがなで「ぼく」と振ったりカタカナで「ボク」と振ったり分ける、とか、小さなこだわりとかもあったりして。 人間ってのはホントに不思議な生き物だなーと感じます。 …自分だけなのかもしれないので「人間」という括りにするのは違うのかもしれませんがw で。 こうしてブログやTwitterなど文章で人様に思いを表現する媒体のとき限定なんですが、わざと「〜のような」という言葉を「〜のよーな」と長音で書いたりすることがありまして。 これも文字を見たときの印象で、どちらのほうがより今の気持ちが伝わりやすいか、ということを無意識下で判断して選んでるんだと思うんですが、なんでこんなことするようになったのかなー?とふと思いまして。 一因としては仕事で台本上の記載を気にしながら芝居をすることが多いから、というのがまずあるなと。 例えば「返せ。」と「返せ!」では芝居に変化が出ますし、「返せ!!」も「返せ…!」も「返せ…ッ!」もぜーんぶお芝居が変わると思っています。 現場の直しでも音響監督さんが「ここ「…」って書いてるけど無視していいから」などとダメ出しをされてる光景もよく見かけるので、おそらくは声優という職業の人はこういう『表記による表現の違い』に敏感な人が多いんだと思います。 がそれだけではないような気がして…いろいろ思い当たるフシを考えてみたんですが……ひとつだけ思い当たりました。 ほら、僕ってオタクじゃないですか? 今はそれほどでもなくなりましたけど昔はたくさんの漫画を読み漁って、オタク欲を満たしたり様々な文化を吸収したりしたもんです…。 その漫画のフキダシ。 これってそのキャラクターがどうしゃべるか、どういう性格なのかを説明する「キャラのヒント」でもあるんですよね。 それこそ僕なのかボクなのか、俺なのかオレなのか、私なのかワタシなのかワタクシなのかでぜんぶキャラ違って見えますよね? こここそがこの表記文化の原点なんじゃないかな、という結論に至りまして。 その中でも特に『THE MOMOTAROH』という作品は僕の中に相当強い印象を残しているらしく…先述の「〜のよーな」みたいな表記の仕方がメチャクチャ出てくるんですよねw 中でも印象的なセリフ表記に 「○○たるやそーぞーを絶してやんの」 という表現がありまして。 なんのシーンだかは覚えてないんですけどこのフレーズだけ妙に印象的に残ってるんですよねー。 うもうふとんからまさかの10歳の頃の記憶まで遡ってしまいましたw 思ってもないところでいろんなこと考えて書いてるもんですね、文章って。 スポンサーサイト
考察
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